« 2012年2月 | トップページ | 2012年4月 »

2012年3月

2012年3月26日 (月)

躁うつ病-3

それは、うだる様な猛暑の日々での出来事でした。平成十六年八月中旬。仕事で休めない私を残して、妻と子供たちは、島根県にある妻の実家に里帰りしていました。

 
  いつもの様に出勤した私は、デスクに向かって仕事を始めようとしたとたん、急に激しい熱気を覚えました。そして脱力感が起こり、仕事が出来なくなってしまいました。会社の体温計で計ると40度近い高熱でした。その日は結局、上司の許可を得てすぐに帰宅しました。私は夏カゼではないかと考え、内科に行き、点滴を受けました。

  翌朝、六時に起床しました。熱はすっかり下がっていて、元気を取り戻していました。ところが、会社に着いて仕事に取り掛かろうとすると、また高熱を発してきました。仕方なく、またすぐに帰宅しました。前日同様、内科に行き、点滴を受けました。

  そして翌日、この日の朝は、もうすでに微熱がありました。しかし、二日間も何もしていなくて、仕事は溜まっていました。お盆前の、忙しい時期でもあります。これ以上休む訳にはいかない、と体に鞭打って、会社へと向かいました。

  しかし、またも高熱が襲ってきました。めまいがして、まっすぐ歩けない程の状態でした。車を運転して帰るのは危険だからと、会社の車で自宅まで送ってくれました。ただし、溜まっている仕事は何とかしなければならないから、私に自宅で書類を作成しろと命じました。作成したら、FAXで会社へ送れと。私はもう、フラフラの状態でした。少しでも活力を取り戻そうと、三たび内科へ車で行き、点滴を受けました。そしてその帰りの事です。

  病院から車で車道へ出ようとした、その時です。
  「ガチャン」
という音がして、車が止まりました。車道にでようとした私の車の前には、もう一台、出ようとして停車していた車があったのです。それに気付かず、私はアクセルを踏んでいました。

  事故を起こしてしまった相手の方は紳士的な方で、私が体調を崩していたせいもあってか、穏便に対処して頂けました。

  しかし、猛暑の中、警察が現場に到着するのも遅く、さらに、事故処理が終わった後、会社に連絡しても、いつまで経っても、誰も来てくれません。アスファルトの道路にしゃがみこんで、このまま熱射病でのたれ死んでいくんだ…と思っていた時、やっと迎えに来てくれたのは、父親でした。会社から連絡がいったのでしょう。社長が来てくれたのは、それからずっと後のことでした。

  幸いなことに、翌日から会社は四日間のお盆休みに入りました。私は両親の住む実家に寝泊りする様になりました。

  まずは熱を下げようと、内科に行き、強力な解熱剤をおしりに注射してもらいました。

  おかげで、熱は下がったものの、私の精神の異変は、益々エスカレートしていきました。携帯電話であちこちに電話しまくるのです。数日前にシートベルト着用違反で摘発されたことに対して腹を立て、110番にも電話しました。

  さらに、異常な喉の渇きから、二L入りのスポーツドリンクを、その日の内に十本以上飲み干していました。そして、夜になると動けなくなり、トイレの前にしゃがみ込んだまま動けず、トイレに行けないのです。結局、空のペットボトルを切って、そこに用を足しました。
 
 父親が、
「精神科へ行こう」
と言い、何とか力を振り絞って立ち上がり、車で病院へ行き、点滴を受けました。夜八時頃だったと思います。そして、その夜は、水分を捕りすぎた心配から、大人用のおむつをして寝ました。

  翌朝は気持ち良く起きられました。心配していた夜尿もありませんでした。まるで行きかえったような爽快感で一杯でした。食欲もあり、かといってまたスポーツドリンクを要求する、と言う事もありませんでした。

  身体の健康状態は回復しました。しかし、精神状態は完全にそう状態でした。父親の勧めもあって、入院を決意しました。病名が知れたら解雇されるかもしれない、そう思って、うつ病の発症以来ずっと会社に隠し続けていたのですが、もうその時には、そのような考えは消えていました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年3月22日 (木)

躁うつ病-2

 こんな風に会社での仕事は順調でしたが、私の体には少しずつ異変が起きていました。

  会社では活発に仕事が出来るのですが、帰宅すると急に元気が無くなるのです。休日も一日中布団の中でゴロゴロしているばかりで、何もする気力がありません。

  ある休日、当時幼稚園に通っていた娘に、
「お父さん、今日何やるん。寝るん?」
と言われて、とても自分が情けなく感じたことを覚えています。

  クリニックに行って主治医の先生に相談しても、
「仕事にあまり夢中にならない様に。適度に手を抜くぐらいの気持ちでやりなさい。」
と言われるだけで、相変わらず坑うつ薬と眠剤の処方のみでした。

  さらに半年が経過した頃、私は活発さを通り過ぎて、攻撃的な性格へと変化していきました。

  ある日の会社での出来事です。いつもの様に私はデスクでパソコン相手に、クレーム処理をしていました。そこへ上司が、そのクレームに関して、質問し始めました。例のように、居留守を装って、対応から逃げていたからです。

 何度か言葉のやりとりをしている時、突然、ドン、と両手で力強く机を叩いて立ち上がり、
「何だその目つきは。何か文句があるのか。」
と大声で私に怒鳴りつけました。私は表情を変えずに、
「カゼ気味なんですよ。」
と、すっと答えました。すると上司は、
「ふーん、カゼになると、そんな目付きになるのか?」
と再び大声で問い直しました。私もすかさず、
「そうです。」
と答えました。しばし見つ目あった後、
「ふーん。」
と言い、上司は机に座りました。私は何事も無かったかの様に、作業を続けました。

  しばらくして、また、ドン、と力強く机を叩く音が響きました。上司です。多くの事務員の前で、今のやりとりは完全に上司の負けです。きっと悔しかったのでしょう。

  しかし、私はカゼなどではありませんでした。上司のあまりの仕事の怠慢ぶりに、心底腹が立っていて、にらみつけるような目付きになっていたのです。そして、そのような上司相手に口論しても、楽に勝てるだけの自信もありました。これも、上司が、難しい仕事から逃げてばかりいるために、様々な問い合わせや、時には苦情もありましたが、私が上司に代わって正面からぶつかり、解決してきたことによって得た自信でした。

  この頃の私の精神状態は、今思えば、完全にそう状態に入っていたと思います。坑うつ薬だけでなく、坑そう薬も必要だったはずです。
  しかし、クリニックでは、相変わらず坑うつ薬と眠剤のみの処方でした。私の説明不足もあったのかもしれませんが。

 しかし、当時、「うつ」という病気があることはもちろん知っていましたが、「そう」という病気は、私は聞いたこともありませんでした。ですから、当時攻撃的な性格に変化したことを、すでに自覚はしていましたが、それが病によるものであることなど、夢にも思っていなかったのです。

  そして、やがて、運命の日が近づいて来ました。
  「障害者」への、扉が待っていたのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年3月17日 (土)

躁うつ病-1

  入社してから一年、私の仕事はすっかり軌道に乗っていました。体の調子も良い、むしろ良すぎるくらいに思われました。

  私は元々、どちらかというと無口で、おとなしい性格でした。それが、いつしか多弁になり、性格も活発になっていました。主治医の先生も、

「あなたは本来もっと落ち着いた性格のはずであり、現在の状態はちょっと脱線しかけている様に思える。」と仰いました。また、そのために薬も少し変えてみる、とも言われました。
 
しかし、人間、そんなに簡単に性格が変わるものでしょうか。自分でも何が原因なのか、その時は解りませんでした。また、新しく処方された薬も、相変わらず坑うつ薬と眠剤のみでした。

  今にして思えば、この時期の性格の変化こそが、「そう」の始まりだったのです。

  このクリニックには五年近く通院しましたが、「そう」という言葉は先生の口からは一度も聞かれませんでした。もちろん、坑そう薬を処方されたこともありませんでした。

  もし、この早い時期に、坑そう薬を出して頂けていたなら、この後起こる悪夢のような悲劇も防げたのではないか…と、悔やまれてならないのです。

  私は、仕事をこなしていく中で、自信が付き、やがて自信過剰になっていきました。それは、正直言って、上司がふがいないためでした。

  例えばクレーム処理の業務。クレーム先が上司の営業担当のお客様の場合、まずは上司が窓口となります。そして、原因究明とその再発防止策の立案、そしてその文書作成などの内部処理が私の業務です。

ところが、相手が面倒な得意先などの場合、上司は居留守を装って対応から逃げるのです。結局私が、電話対応から謝罪まで、全てを任されることになります。

  もっとひどいと感じたことは、その上司は常務取締役であるにもかかわらず、退社が早いことです。いつも定時頃には会社からいなくなっていました。さらに、いなくなると、携帯電話も自宅の電話も留守番電話の状態で、緊急連絡が全く取れません。

 従って、上司の得意先からの問い合わせなどは、私が直接受けることが多くなってきました。それらを次々とさばいていくうちに、仕事に対する自信も次第に強くなっていきました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年3月15日 (木)

ちょっと一服。

この春、長男が、愛媛大学工学部に合格しました。

また、3つ年下の次男が、愛媛大学附属高校に合格しました。

どちらも、家から通える国立の学校です。

働けなくて、お金が無い私にとって、これほどの親孝行はありません。

ここまで言うと、親ばかだと思われますが、長男は、やはり愛媛大学附属高校に通っていて、成績は常にほとんどトップでした。

もっと有名な大学に行ける実力はあったのですが、家庭の事情を説明して、本人も納得してくれました。

 

 

それにしても、子供は育つのが早いな、などと思っていたら、気が付いたら、私達夫婦も、

今年で結婚20年になります。

よく20年も、あの妻の下で、耐えてきたな… そんな気がします。

もっとも、その20年間の半分以上、うつや躁鬱で迷惑をかけたのは、私ですが。

 

 

うつ病や躁うつ病などの精神疾患は、遺伝する要素が高い、といわれます。

この子らが将来、同じ苦しみを味わうことがないことを、祈るばかりです。

 

 

ところで、私の方はというと、ヤフーオークションが、なんとか終息しつつあります。

売上は、目標額には届きませんでしたが、ネットでのビジネスとはこういう風にやるのか、という、いい勉強にはなりました。

まあ、これはあくまでも最初のステップであって、本番で大きく巻き返したいと思います。

つい先日、テレビ(テレビ東京、今週土曜日にはBSジャパンで再放送)で取り上げられた、このネットビジネス、うまくいったら、そのノウハウをご紹介したいと思います。

 

うつ病や躁うつ病の話ばかりだと、退屈でしょ?

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2012年3月12日 (月)

うつ病-12

 入社初日、社員の方々は皆、快く迎えて下さりました。

 事務所の私の机には、すぐにでも仕事に取り掛かれる様、文具品や印鑑、それにパソコンも用意して頂けました。また、検査業務の方も、難なくこなせるようになりました。具体的には、大腸菌などの微生物検査の他、水分、塩分、水分活性値などの理化学的測定・検査を行っていました。特にスピードを要求される訳でもなく、この検査業務に関しては、私一人で、自分のペースで行うことが出来ました。

  こうして、午前中は検査、終われば午後は事務所でクレーム処理や商品仕様書の作成、さらにはお客様からの商品に対する問い合わせ対応、などといった事務作業、という仕事の流れが出来ました。

  私が入社してすぐに騒がしくなったのは、狂牛病問題です。事件が公になるや否や、お客様からの問い合わせのファックスが殺到しました。原材料に、牛の危険部位である骨髄やゼラチンなどが含まれていないかどうどうか、という内容です。私共の製品にはそのような原材料は一切使用していませんでしたから、その点の処理は簡単でしたが、驚きと同時に、多少疲れました。入社して間もない頃でしたから。

  社長は、その私の仕事振りを評価してくれました。私は検査が主体で、事務作業まで即戦力になる、とは当初期待していなかったのでしょう。

  クレーム処理も、最初はとまどいましたが、直ぐに慣れてきました。
  コツをつかんだ私は、検査を早々に済ませると、クレーム処理に没頭するようになりました。お盆前のこの時期、私共食品業界は稼ぎ時なのです。そして、多く売れれば売れるほど、クレームも多発します。多い日は一日に四、五件さばいていました。文章はパソコンで作成しますが、前職でパソコンのタイピングには慣れており、内容が固まれば、あとは迅速に文書化し、印刷することができました。

  入社して二回目の給料日、明細を見て私は驚きました。給料が早くもアップしていたのです。打ち間違えではないかと思い、主任に尋ねたところ、
「期待以上によくやってくれているから。入社時点では過小評価していた。申し訳ない。」
とまで言われました。日々、わずか一時間程度の残業しかしていないのに、前職よりも多額の給料となりました。

  この頃はクリニックに通い、坑うつ薬と眠剤を処方してもらい、服用していました。しかし、仕事も楽しく打ち込めることが出来、うつの症状は薄れてきました。もうじきうつは治る、と信じていました。

   
 ただ、実は転職前に、主治医の先生から、
「完治するまでは、大きな事、例えば離婚、マイホームの購入、転職などはしてはならない。」
と警告されていました。転職は先生には内緒でやった事です。これがその時点では奏効した形となっていました。
ですから、この先生の警告は、半ば無視していました。
 
 そして入社して四ヶ月目、念願のマイホーム購入に踏み切りました。私も気が付けばもう三十六歳、三児の父親です。いつまでも借家住まいではいけないと考えていました。何とか住宅ローンを組むだけの収入も得ていましたし、うつもほとんど症状がなくなっていました。安定して勤務し、お給料も頂ける、そんな自信があったからです。

  松山市内の中心部に近く、また、私の両親の住む実家にも歩いて行ける好物件があり、3LDKを購入しました。ローンの返済期間は長く、私が七十歳になるまで支払い続けなければなりません。ちょっと厳しい条件でしたが、思いきって決断しました。この頃は、体調も良く、うつが再び悪化するかもしれない、など全く思っていませんでした。

  しかし、これで、主治医の先生の警告を二つ破ったことになりました。その代償は、あまりに大きなものとなって、後の私に襲い掛かってくることになるのです。

 

  うつ病編-終わり。

  次回からは、躁うつ病編になります。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

うつ病-11

 通常、職業安定所を介して応募する場合、求人窓口に申し出て、企業に連絡後、紹介状を発行してもらい、それを持って面接に行く、というのがルールです。

 ところが、焦っていた私は、印刷された求人票に記載されていた企業の所在地に、直接履歴書を送付しました。求人窓口に申し出ることもなく、いきなり。

 
  すると、送付してまもなく電話連絡があり、すぐにでも面接したい、と言われました。電話の声に手応えを感じた私は、うつの気分が幾分和らいでいました。出来るだけうつの暗い表情を避け、明るい爽やかなイメージで面接に望もうと考えました。

 履歴書には「健康状態」に関して記載する欄がありますが、むろん「良好」とだけ書いておきました。うつ病を患っていることなど書けば、それだけでアウトでしょう。
 

 面接では、検査担当者が急に退職してしまい、現在不在の状態なのだが、即戦力としてやれるか、と問われました。私は検査室を拝見し、検査内容を聞いた上で、これなら経験済みだ、簡単だ、と思いました。そして、自信を持って、「はい、できます。」と答えました。

 気になっていたクレーム処理も、お客様へのお詫びの文章を書く作業だ、と知りました。文章力にはある程度自信があったので、これもクリアされました。残業時間も一日一時間程度だと聞かされました。

  こうして、私はこの食品会社への転職が決まりました。もう、深夜残業や休日出勤もない。無理なくマイペースで仕事が出来る。やがて、うつ病も治るだろう。

 そういう希望を持って、入社の朝が来ました。平成十三年七月初旬でした。

  しかし、この日が、うつ病よりもっと恐い「そううつ病」への出発点となったとは、当時夢にも思っていなかったのです。

 

 ※この闘病記に関する、ご意見、ご感想などございましたら、お気軽にメッセージへ

   お寄せください。

   随時このブログでお答えしたいと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2012年3月11日 (日)

ちょっと一服。

 しばらく、ブログの更新をお休みしていました。

 理由があります。

 障害者トライアル雇用でパート勤務に採用されていた会社から、2月上旬、解雇されました。

 すっかり落胆していた私を支えてくれたのは、あるSNSで知り合ったHさんでした。

 Hさんは、アフィリエイトの世界を私に教えてくれました。

 もっとも、そう旨くはいかないもので、あれこれがんばってみたものの、アフィリエイト報酬は、結局ゼロでした。

 ところが、アフィリエイトをはじめたとたんに、いろんなサイトから、あらゆる金儲けの方法の紹介メールが舞い込んできたのです。

 そこで、これは、と思ったのが、ヤフーオークションでした。

 家にあって、もう使わない物、家電製品から書籍、レコード盤まで、あれこれ集めてオークションにかけたところ、思わぬ金額で次々と落札されるのです。

 そして、もう身の回りに売るものが無くなったら、どこかから仕入れます。

 その「どこか」とは、一体…

 またの機会にお話しします。

 そんなわけで、忙しくてブログに時間が割けませんでした。

 障害年金を受給しながら、こんな風に1日中、自由にパソコンに向かえるのは、この病気になった唯一の利点です。

 今、考えている金稼ぎ、もし上手くいったら、また紹介させていただきますね。

 今週はメルマガはお休みです。

 ちょっと躁になり気味で、疲れていまして。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年3月 5日 (月)

うつ病-10

  再び松山に帰ってきた私を待っていたのは、とても厳しい仕事でした。

  コンピューターの世界は、日進月歩、常に新しい技術が生まれ、導入されていきます。私の経験したことのない分野・技術を駆使してのソフトウェアの開発。これが、私にとって、精神的に非常に重圧となりました。

 深夜残業や休日出勤ももちろん多かったです。そして、何より辛かったのが、人間関係です。出来の悪い私を、上司は酷評しました。それも大勢の社員のいる中で、大声で…。

  毎日、朝起きるのが辛くて仕方ありませんでした。苦しそうな声を発しながら起床する姿に、妻も異変を感じている様子でした。朝起きると食事よりも何よりも前に、薬を飲んでいました。飲まずにはいられないのです。あまりの苦しさに…。
 気持ちの問題だろうと思いますが、薬を飲めば少し楽になりました。そして朝食を取り、出社していました。

  この様にうつが再びひどくなった背景には、薬も用意せずに向かった、無謀とも言える東京出張が影響していたのかもしれません。

  当時は賃貸マンションに家族五人が住んでいました。さほど経済的に困っている、という訳ではありませんでしたが、「休職」ということは全く脳裏にありませんでした。とにかく家族を養うためにも頑張って働かなければ、という思いだけでした。そして少しでもうつの苦しみを軽減させるため、クリニックにもよく通い、様々な薬を試してみました。

  しかし、うつの苦しみは日を追うごとに増すばかりでした。

「薬のことよりも、仕事が向いてないんじゃあないか?」

 そんな風に考え始めていました。平成十三年の春頃。うつ病と診断されて、一年半ほど経っていました。

  情報処理関係の仕事は、うつがひどくなるにつれて、もう私には無理だと考え始めました。

  毎週、多くの求人情報誌を抱え、目を通すようになりました。また、幸いなことに、当時、職場から自転車で十分くらいの場所に職業安定所があり、昼休みになると、食事を早めに済ませて職業安定所に行き、求人閲覧をしました。

  しかし、なかなかこれといった求人情報は得られませんでした。不景気な世の中だから仕方ありません。その上、私の場合、うつ病という爆弾を抱えています。私のような者でも正社員として務まる会社、となると、さらにハードルは高くなってしまいます。

  半ば絶望感が強い中、ある日いつものように職業安定所で求人閲覧をしていると、

「品質管理」

という業務に目が止まりました。食品会社で、食品の検査、およびクレーム処理を希望、というものです。

 クレーム処理がどのような作業かは知りませんでしたが、検査なら、以前、別の会社で水質検査を五年近くやっていた経験があります。また、大学時代、工学部で応用化学を専攻しており、さらに、国家資格である技術士の化学部門で第一次試験に合格しており、検査や化学、ことに食品化学にも通じています。

「転職するなら、ここだ。」

と決意しました。

 

 

※メルマガを発行しました。 「心の病―うつ病と躁うつ病―」    こちらも是非お読み下さい。   

http://melma.com/category/health/mental_health/

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年3月 1日 (木)

うつ病-9

再び精神科を訪れ、主治医の先生に説明し、そこではじめて、
「あの薬は症状が改善されても、主治医の指示なしに勝手に服用を止めてはいけないんだ。」
ということを知らされました。
さらに、
「勝手に服用を中止したために、うつ病をこじらせている。治りにくい状態になってしまっている。」
という事も聞かされました。

  
  初めにその説明をしてくれていれば…と、ちょっと先生をうらんだりもしましたが、後の祭りです。前回と同じ薬を処方され、帰りました。

 
  それでも、夜は何とか眠れていました。食欲もやや減退気味ではありましたが、食べることはできました。仕事の方も、残業が比較的少なく、難しい作業でもなかったので、何とかこなせました。車の運転も可能でした。自殺願望などもこの頃は無かったですし、自分なりに判断すれば、
「軽いうつ病」
と言える時期だったかもしれません。

  やがて単身赴任も無事終了し、地元松山に帰ってきました。帰ってきてまず私がしなければならなかったのは、転院先を探すことです。しかし、それほど重度のうつ病ではないと思っていたので、あまり深く考えず、タウンページを見て適当に決めました。今から考えると、あまりにも安易な決断だったと思います。

 
  松山に帰ってきてからの仕事も、比較的楽な作業でした。残業も少なく、作業場所も自宅から近いため、精神的にも安定していました。

  翌、平成十二年一月末、今度は東京への出張を命ぜられました。

  会社から用意して頂いたアパートは、葛飾区の金町。千葉県との県境の街で、次の駅は、もう松戸、という場所です。そこから電車を乗り継いで、山手線の田町で下車し、徒歩約二十分の所に勤務先がありました。

  当時うつの症状はかなり軽くなっていたので、薬なしで出張に行きました。仕事はとてもハードなもので、深夜残業の連続。最終電車で帰宅する日々を送っていました。徹夜で作業をした日もありました。また、アパートでの生活環境も、決して快適なものではありませんでした。 

 それでも、東京で精神科にかかることも無く、薬も必要と感じませんでした。不安感や虚脱感といった症状も、ほとんどありませんでした。

 
  仕事も順調にこなせ、夜も充分眠れました。長い通勤時間を利用して、第一種情報処理技術者国家試験の勉強をし、後に合格することができました。
 また、東京に来ることなど滅多にない機会だからと、家族を呼び寄せ、ディズニーランドや浅草、秋葉原など、東京見物を楽しみました。

 やがて、暖かくなった三月末、無事業務を終了し、松山に帰りました。

  しかし、楽しい時期はここまででした。

 

 

※メルマガを発行しました。 「心の病―うつ病と躁うつ病―」    こちらも是非お読み下さい。   

http://melma.com/category/health/mental_health/

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2012年2月 | トップページ | 2012年4月 »